演歌の魅力をお伝えします。
花槐 散りぬる夢に 漂わん
黄海と渤海に挟まれ、目の前の山東半島と対峙するかのよう突き出た遼東半島は,日本人にとっては、恋焦がれし、思いの募る地とでも言おうか、良きにつけ、悪しきにつけ、千千なる思いを巡らすところと言えよう。日本は、下関条約で手に入れた遼東半島を、三国干渉により不本意のながら手放すことになった。その干渉国のひとつであるロシアが、この半島を租借し、青泥窪と呼ばれていたこの地を、ダーリニー(遠い)と呼ぶ街へと開発していくのだが、その後の発展ぶりを横目で見ながら、当時の日本人はきっと悔しい思いと、ロシア憎しとの思いに浸ったたことであろう。1905年、そのロシアとの戦いに辛うじて勝つや、ロシアが持つ中国大陸での利権をそのまま引き継ぎ、念願の大陸進出の拠点として、この遼東半島を、日本人はやっと手に入れることが出来たのである。
僕にとっての大連は、青春の大連を清冽に描いた清岡卓行の芥川賞受賞作品『アカシヤの大連』との出会いに始まる。何度も読んでいるうちに、僕のうちには、ロマンチックで、叙情的な、形而上の大連がいつの間にか出来上がっていたのだ。
大連に到着した日の夕方、ホテルから中山広場に向かい歩いていたら、路面電車が、その路上を西から横切り、走っていった。以前来た時には、パンタグラフが、架線を嘗めながら、車両を前後に上下しながら走る、あの懐かしい車両であったが、今では、2連結した細身の意外とモダンな車両に代っている。日本から最初に持ち込まれたのは1909年だそうだが、今も市民の足として生きているのだ。眺めているうちにとても乗りたくなり、急いで最寄り駅の三八広場(旧朝日広場)に向かい、そこから大連駅までの203路線に乗った。世紀街、民主広場(旧敷島広場)、勝利橋(旧日本橋)、青泥窪橋(大連の昔の地名)を経て、やがて上野駅に良く似た大連駅の前に到着。料金は乗るときに、怖そうな小母ちゃん車掌の前の料金箱に1元を投げ込む。大連駅より西に向かう201路線は、北京街、大同街を通り、五一広場(旧三春町)、興工街などの繁華街を通り、沙河口駅に至る。また、興工街から嘗ての星ヶ浦海水浴場である星海公園を通り、小平島までは、202路線であり、星海公園を中心に大規模な開発が進行しつつある中を路面電車は走っている。特に、この辺りは大学や研究機関が集まるハイテク開発地区であり、海を埋め立て、あるいは山を開発して、新たな住宅地区も作られている。昔から日本とはなじみのある大連だけに、路面電車に揺られているうちに、いつの間にか古への誘いを感じるのだ。大連での2泊の滞在中、何度この路面電車に乗ったのだろうか。旅順への一日観光も、その帰りに、202路線の終点の小平島駅付近でバスから下ろしてもらい、路面電車に乗り換え、車窓から大きく変わろうとしている街を眺めながら、子供のようにはしゃぎながら大連駅に戻ってきた。
3日目、午前8時、大連駅から沈大線に乗り、鞍山市に向かう。駅を出ると、やがて両側にトウモロコシ畑が延々と続くのである。このあたりも、赤い太陽がゆっくりと地平線に沈む満州の大平原が広がっているとばかり思っていたのだ。やがて遠くに山なみも見え始め、起伏のある地形へと変っていく。線路沿いは相変わらずのトウモロコシ畑が続くが、鞍山に近づくにつれ、やや奇形の山なみに変わり、その手前の小山の頂には大きなお寺が、さらに真近には、屋上に瑠璃瓦の建物を載せた奇妙な形をした建物が、後ろへと走り去っていく。やがて、目の前には、古いビル群が続き、工事現場のような市街地の中を、列車は徐々にスピードを落としながら、11時05分に鉄鋼の町、鞍山駅に到着した。鞍山鉄鋼コンビナートは、武漢、包頭とならぶ中国三大鉄鋼コンビナートのひとつであり、中国では、中学生ならば誰でも知っている鉄鋼の町である。この地における鉄の歴史は古く、前漢の時代には鉄が造られていたという。 近くには、東鞍山、西鞍山、大狐山などの鉄鉱石の鉱山も多く、北東の隣町は、石炭の露天掘りで有名な,撫順である。嘗ては日本の国策会社満鉄の関連会社であった。駅前は大規模な再開発事業が進行中である。
暑い日であった。お昼近くになっていたので、食事をしようと、駅から近かくの繁華街をうろうろしたのだが、それらしき店もなく結局、麺類のフアーストフーズの店に入り、腰のない四川風の辛いうどんを食べることなった。食後、タクシーを拾い、湯崗子温泉に向かう。先ほど大連からこの鞍山まで来た線路に沿って、戻ること7キロ、湯崗子温泉と書かれた大きな正門を見つける。その隣には、つい先ほど車窓から見た、屋上に瑠璃瓦の奇妙な構造物を載せた建物のようで、その外壁をみると、問診部の文字が見える。この温泉が、今では、温泉治療の療養所となっていることが分かる。この地区は、嘗ては南満州鉄道の付属地であったので、当然に鉄道線路から近いところにあるのだ。敷地内には建物が幾十棟もあり、普通の宿泊客も泊まることのできる施設がある。敷地内の案内看板には中国語のほか、ロシア語と韓国語が併記されている。清朝最後の皇帝溥儀が、この温泉地にしばらく潜んでいたと言うことを聞いていた。敷地内の、どちらかと言うと古い2階建ての建物の前で車は止まったのだ。入り口には龍宮飯店と書いてある。 チェックインのあと、午後4時で受け付けが終わると聞いたので、この温泉の名物の泥温泉に急いで向かう。蓮池を通り、全泥宮と書いた建物に入る。更衣室で、大連のデパートのバーゲンで購入した水泳パンツに着替える。体育館のような部屋に下りていく。客は7,8人ほどで、コンクリートで丸く囲まれた砂交じりの泥場があり、砂を掻き揚げ、平らにした泥の床に、仰向けに寝ると、中国人の三助が、何処から来たのかと尋ねながら、泥をスコップで掛けてくれる。泥温泉は男女混浴?で、僕の右隣は、大柄のロシアの女性であり、左隣は、穏やかな雰囲気の、とても苗条な30代半ばの中国人女性、向かい側は、韓国人の初老の男、それにいずれも立派な体格のロシアの小母さんが2,3人、である。三助は、僕に何国人かと尋ねるので、日本人だと言うと、知っている日本語の単語を並べながら、泥を少しづつ掛けてくれる。どうやらこの施設では日本人が珍しいのか、三助は僕にやたら話しかけてくるのだ。これが終わったら、美味しいお茶を飲ましてやるとか、私を秘書に雇ってくれとか、何とか言いながら、とても愛想が良いのである。横のロシア人の小母さんは、典型的なメタボであるので、右を見ると、お腹のあたりが小山のように泥が盛り上がっている。しばらくすると、汗が体中から湧き上がってくる。三助が、時々タオルで顔を拭いてくれる。その時、些か卑猥な笑いを浮かべながら、なにやら小声で話しかけてくるが、正直、何を言っているのかはよく分からないので、適当に相槌を打っていた。30分ほどで泥から解放されたが、体がぽかぽかとし、身が軽くなったような気がして、気分も爽快になっていく。しばらく泥の上に横になって、休んでから、水で泥を落とし、服に換え、外に出た。この施設の前の蓮池は、今が盛りとばかり花が咲いていたが、その中央にある東屋で,蓮の花を眺めながら、暫し体を冷ましていた。帰りに、施設内のレストランで夕食を終え、部屋に戻ってきた。しばらくすると、雷が鳴り始め、大粒の雨がぱらぱらと降り、やがて雨脚がとても激しくなってきた。内装も設備も古いこのホテルの部屋の窓から、雨音と雷鳴を聞いているうちに、1931年11月13日、関東軍の土肥原の、満州国の皇帝にとの誘いに乗り、天津を脱出、営口に上陸し、このホテルに入った溥儀の、その時の思いを想像していた。
1931年9月18日満州事変勃発。1931年11月10日夜、天津騒乱に乗じ、宣統帝溥儀は天津市の日本租界から白河埠頭に行き、11日未明、そこから日本軍所属の比冶山丸で、大沽に下り、深夜になって、一行は淡路丸に乗り移る。13日早朝、大杉栄惨殺事件の被告であった甘粕正彦ほか僅かな日本人に迎えられ、遼寧省営口市の満鉄埠頭に到着。そこで、馬車に乗り換え、駅に向かい、そこから汽車で一時間あまり移動し、再び馬車で、湯崗子温泉に入り、日本風の洋館である“対翠閣”に泊まる。湯崗子温泉は満州鉄道の付属地に所在し、満鉄が経営する旅館であった。この時、この旅館は貸切になっており、溥儀は実質的には軟禁状態であったと言う。その後、より安全のためという理由で、18日には旅順大和ホテルに移り、そこでも同様な軟禁状態のまま、年を越すのである。
中国の朝は早い。どこかで聞いたような流行歌に目が覚める。部屋の窓から眺めると、ホテルの前の広場では、健康ダンスを興ずる人々で溢れている。曲は日本の演歌である。建物の奥に皇帝溥儀と,皇后が入浴したお風呂があるというので、朝食の帰りに見に行く。壁のタイルは竜宮城で乙姫様の歓迎を受ける浦島太郎の図である。溥儀はこのタイル絵に描かれている浦島太郎を見て、ひょっとすると、自分のことだと思ったのかもしれない。
張作霖と学良親子の、思い出の地を辿るのが、今回の旅の主な目的である。昨日駅からこのホテルまで乗ったタクシーの運転手に、今日一日の計画を話し、案内してもらうことになっているのだが、これまでの例から見ると、中国人は、いつも、何も問題はないと、自信を持って言うのである。彼に、昨日別れるに当たり、今日のコースをしっかり調べておいて欲しいと頼んでおいたのだが。午前9時、運転手の徐君が迎えに来てくれる。ここ鞍山出身で、解放軍上がりの39歳の青年である。まずは、台安県にある学良生誕地に向かう。
匪賊、馬賊上がりの旧弊な軍閥だと言われてきた父と、その息子が、生きてきた時代と場所を見つめながら、この親子の絆がいかなるものなのかを、強く感じる旅を、僕は期待していたのだ。
鞍山駅から南西約7キロのところにある湯崗子温泉は、現在の大瀋線、嘗ての南満州鉄道の付属地に位置するが、台安県は、北京、錦州、瀋陽を繋ぐ京瀋線に沿って広がる町である。したがって、目指す台安県には、湯崗子温泉からだと、鞍山市の南東地区から北西地区へ横断することになる。市街地を走る国道をしばらく走り、両側に農地の広がる郊外を走る省道を走り続ける。道路の両側には街路樹が植えられているが、このあたりでは、槐樹、アカシヤなどもあるが、やはりポプラが多く、その外側は、かなり成長したトウモロコシ畑が続いている。よく見ていると、起伏がある地域であるが、農道は縦横に走り、圃場整備もなされ、良く管理された農地が続く。いくつかの集落を通り過ぎるにつれ、トウモロコシ畑の中に、水田が見え始め、更に進むにつれ、水田が次第に広がっていく。再び人家の密集する町に入ると、店舗や集合住宅なども多くなる。街の中心らしきところには、大きなローターリーがある。その中に見覚えがある銅像を見つけ、慌てて徐君に車を停めるように言う。停まるや、ローターリーに向かうと、軍服を着た張学良の立像である。その脇に八角台と書いてある。八角台は、満州国第2代目の国務総理である張景恵が、嘗ては馬賊の親分として、雑貨店などを営みながら仕切っていた町であり、この地に家族を連れ、落ち延びてきた張作霖に、この縄張りを譲り、張作霖が馬賊の保険団として、守っていた町のひとつである。今の台安県の県庁所在地である。それなりに賑やかではあるが、農村地帯の中心にある街という感じであろう。早速写真を撮り始める。そして今度は銅像の前に立ち、嬉しそうに写真を撮ってもらっていると、胡散臭そうな顔をして、人々が集まってくる。取りあえずは、彼らを無視していたが、張作霖が馬賊の助っ人を集めに行った浪人市場は、ひょっとすると、こんな風に、何かあるのではと思いながら人が集まってくるところから始まっていたのであろうと思い、張学良の像を仰ぎ見ながら、一人、悦に入っていたのである。再び農村に入り、整備された農道を進む。この一帯の農地はほとんどが水田である。ポプラの並木は続くが、ところどころに、ポプラが森のように纏まって植えられている。防風林なのか、ポプラが伐採され積まれているところもあるので、加工用の植林なのかもしれない。その合間の放牧地に、真っ白な肉付きの良い牛が数頭放牧されているが、乳牛なのだろうか。突然、徐君は、ハンドルを切り、事務所風の建物の前の駐車場に車を停めるや、急ぎ足で、その建物に入っていく。少し行き過ぎたと言いながら戻ってきて、先ほど走ってきた道を戻り始める。相当前に回らねばならないのを、まっすぐに来てしまったようだ。このような場合、日本人ならばどうするのだろうと考える。徐君は、何やら説明的に話をしていたが、どう見ても、道を間違えて申し訳ないという雰囲気ではないのだ。まあそこが中国人の、中国人たる自信なのだろうと僕は思うのだが。謝る必要がなくても、ごめんなさいから入る、日本人とは違うのだろうと思うのだ。とは言え、日本でも、最近は電車の中で、足を踏んでも、謝らない人が増えてきたような気がするのだが。時間のロスの大きさに気がついたのか、その後、徐君はやたら人に道を聞いて進んで行った。やがて細い道を通り、小さな集落に入り、突き当りを左に曲がったあたりには、人が数人たむろしており、その前で車が停まった。泥濘を避けて下りると、この家の管理人だと言う初老の女性が近づいてきた。
張学良は、ここ、現在の台安県桓洞鎮鄂家村で、1901年6月4日に生まれている。父張作霖は、当時売り出し中の馬賊であり、請負地域を守る馬賊保険団として活躍していた。しかし、馬賊間の争い、つまり縄張り争いに負け、身重の妻と娘を連れて、妻の親戚を頼り、台安県県城である八角台に逃れてきた。そして八角台の西北にある妻の親戚のこの家で、学良は生まれた。学良は幼き時を思い出し、父にどんなに可愛がられたかを、台湾での軟禁が解かれた1990年に、NHKの『張学良の昭和史最後の証言』の中で、次のように述べている。『 私が産声を上げたちょうどその日に、父は初めての戦いに勝ちました。父がのし上がっていったのは、この勝利がきっかけでした。ですから、父は、私のことを本当に可愛がってくれました。まさに千金の子だったのです。』
母親は彼が10歳の頃亡くなっているが、父作霖は、息子学良をとても可愛がり、名前にも学を付けたように、多くの家庭教師をつけ、勉強をさせた。長男として生まれた以上、父の後を継ぎ、奉天軍閥の長として活躍しなければならず、後に、学良は、人を救う医者になりたかったのであるが、人を殺す軍人になってしまったと、述べている。この家には6歳まで住んだと言われている。当時この家は、藁葺きレンガ積みの平屋建物で、部屋数は5間あり、彼はその一番東の部屋で生まれたと記録されている。入り口には、“張学良出生地”と金文字で書かれており、建物の大きさは、当時のままである。展覧室は4室ある。子供の時代、皇姑屯事件、西安事変、そして蒋介石によって軟禁されていた長い時代などの写真や関係物などが陳列されている。敷地規模も当時とほぼ同じ600?あり、当時の井戸と裏庭には樹齢300年の棗の大木がある。1991年に、赤くなったこの棗の実を台湾の学良将軍に送ったら、”棗の木の下でよく遊んだものです。棗の実を見て、昔のことがいろいろと思い出すことが出来、本当に嬉しく思います。ありがとう”と、学良から人を介してお礼があったそうだ。この棗の木の隣に、楡の木が自然に生え、そして大きくなっていた。地元の人は、この楡の木は、学良の第一夫人于鳳至さんの樹だと説明する。中国語では、楡も、于も、発音はYUである。老管理人はこの樹木の説明に20分余も掛ける熱心さであった。
いつの間にか村人が、と言ってもほとんどが老人であるのだが、僕の周りに集まっている。抗日の英雄を出した村人は 、日本人の僕が、わざわざこの記念館を見に来たことを話題に、しばし退屈な時を忘れてくれるならば、これも幸いかなと思いながら、この地は離れる。
この集落を出ると、再び水田の広がる中の農道を走り、やがて森の中に入る。木々の間から進行方向に大きな門と石の造形群が見えてくる。“少帥陵“である。全体としてはまだ新しい陵のようであるが、石畳の周りは雑草に覆われ、石段にも雑草が頭を出している。一番後ろにある墓園の周りは、通路をのぞき、夏草で覆われている。完成したときは、賑やかに儀式が催されたようであるが、歴史に学ばねばならぬ国でも、経済危機の今は、現実の生活が優先と言うことなのだろうか。
お昼になっていたが、周りには食堂らしき店など見当たらないので、とりあえず八角台まで戻ることとしたのだが、途中北京・ハルピン高速道路のインターに出会い、そこから高速に乗り、錦州に向かうこととした。北京ハルピン間の主要高速道路のため、大量の荷物を積んだ大型のトラックが、猛スピードで走って行くのを見ていると、些か恐怖を感じる。
疲れが出たのであろうか、いつの間にか車の中で転寝を楽しんでいたのだが、ふと目を覚ますと、高速道路の脇の山に、張作霖墓園の看板を見つけた。1928年6月,河本大作らに爆殺された張作霖は、死後9年間瀋陽(奉天)郊外の王爺廟に安置されたままであった。それを錦州に運び 、張作霖第一夫人の墓の横に埋葬しようと言う案を立てたのは、甘粕正彦であった。1937年6月2日張の霊柩安葬には、張学良は来なかったが、その弟や親族縁者が列席し、盛大に行われた。甘粕は、日本人は葬儀の表面に顔を出すなと言い、極め細やかな指示をし、その費用をも出したと言う。その墓園が、ここ錦州市○海市(○の中は、にすい偏に、陵の旁)石山鎮にある、張作霖と第一夫人趙氏の墓である。実はこの墓地も見て行きたかったのであるが、昼食取らずに運転させていたので、徐君にあまり無理を言うのもと思い、そのまま錦州に向かわせた。錦州インターを下り,錦州北駅までは、約40キロ、午後3時錦州北駅に到着した。ここで徐君と別れ、地元のタクシーに乗り換え、ホテルに向かう。
父張作霖が日本軍に爆殺された時、学良は北京で、彼の誕生を祝うパーテイを楽しんでいたのだが、炊事兵に変装して密かに奉天に戻ったと言われている。父作霖の死はしばらく伏せられていたのだが、これを機会に、一気に東北三省を日本軍が完全制覇しようとの関東軍の思惑は、張作霖の生死不明と、日本軍には抵抗しないという奉天軍の戦略により、この事件では達成することができなかったようだ。むしろ日本軍による父作霖の爆殺を契機に、張学良は、反日を一層鮮明にしたと言えよう。『張学良の昭和史最後の証言』の中で、学良はこのことを述べている。
『たとえ私の父が日本軍に殺されなかったとしても、私はやはり同じことをしていたでしょう。私はずうっと中国の国家統一を主張してきたからです。・・・。父の死が私の気持ちを動かしたのではありません。ただあの事件のせいで、私はそれまで以上に抗日運動に没頭するようになりました。』
ウケる演歌、歌謡曲来週50、60代の上司達の前でカラオケを歌う機会が有ります、盛り上がる名曲を教えて下さい、男性です、お願いします。
愛知県で活躍されているが 尾崎博さんと言う演歌歌手の情報を知りたいのですが、ブログなどもないみたいで詳細がわかりません。UGA通信カラオケには配信されているようです。 どんな事でも知っている方がいましたらお願いします。
カラオケで歌いやすい演歌歌手とその曲を教えて下さい。なるべく沢山お願いします。