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日本の旅 みちのく文学を辿る【8】 石川啄木が愛した街 函館
旅行者:さすらいおじさんさん
旅行期間:1993/05/22~1993/06/03
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 石川啄木(1886-1912年) は1907年の5月から9月まで函館で生活していた。函館では代用教員や「函館日日新聞」の遊軍記者などを勤めながら小説「漂白」を書いたり、文芸雑誌を編集したりしており、啄木にとってはかなり充実していた期間だったらしく後に「死ぬときは函館で死にたい」と語っている。啄木の言葉通り石川啄木一族の墓地は函館山の中腹、立待岬への途中の津軽海峡が美しく見える場所にあり有名な

「東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたはむる」

の歌碑もある。
石川啄木一族の墓地の近くには啄木とも親交があり函館を訪れた与謝野晶子(1878-1942年)鉄幹(1873-1935年)の碑がある。鉄幹と晶子は浪漫主義文学運動を展開し1901年に結婚したが晶子の処女歌集「みだれ髪」では、女性が自我や恋愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに謳い、歌壇に衝撃を与えている。特に代表的な歌

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」

は晶子が傾倒した「源氏物語」が示した女性の自由で豊かな感情表現を、文明開化の明治時代に取り戻そうとした革命的な挑戦と言えるものではないだろうか。
 1904年には日露戦争の旅順攻囲戦に出兵していた弟を嘆いて「君死にたまうことなかれ」を「明星」に発表。文芸批評家大町桂月などからは、「賊子」と批判されるが晶子は堂々と反論し揺るがなかった。

「君死にたまうことなかれ」
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

日本が国民皆兵を掲げ、大陸進出を目指した時代に本音で堂々と反戦の詩を詠んだ晶子の勇気には頭が下がる。
 五稜郭は日本初の洋式城郭で五つの稜が星形に突き出ているため五稜郭と呼ばれた。幕府が北方防備のためにヨーロッパの城を参考に蘭学者武田斐三郎の設計で1857年から7年がかりで築造したが、皮肉にも戊辰戦争の最後の内戦「箱館戦争」の舞台となった。1868年、大政奉還に不満を持った幕臣・榎本武揚、新撰組副長・土方歳三らがここを占拠し政府軍に反攻するが、土方歳三は戦死、翌年5月に榎本は降伏・開城し、「蝦夷共和国」建設は果たせなかった。もし「蝦夷共和国」ができていれば日本の歴史は変わっていただろう。公園の入口には五稜郭タワーがあり、地上約50メートルの展望台からは五稜郭が美しく見える。
 函館山は標高334メートル、周囲9キロメートルの死火山で牛が寝そべっている姿に似ているので臥牛山(がぎゅうざん)とも言われる。夜景は香港、ナポリをしのぎ世界一との評価もあるが、確かに見事な夜景だった。
 函館港から下北半島の大間までフェリーに乗った。函館シーポートプラザでは1988年まで運航し、仕事を終えた青函連絡船・摩周丸を見ることができた。函館は北島三郎の「函館の女」をはじめたくさんの演歌に歌われているが、石川啄木が愛したように郷愁を誘う魅力のある街だった。
(写真は五稜郭タワーから見る五稜郭)


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